証明

人とトラブルを起こしてはアカウントを変えながらも、なんやかや3年Twitterしてきた。

その内に気づいたんだけど、私はよく、街で人と接触したりTwitterのタイムラインで他人の考えに触れたとき、

場合によってそれに対する怒りをSNSで書いてしまう。

 

けれど、表のアカウントを畳んで鍵アカウントに篭り、過激な発言ばかりする人のフォローを解除してからというもの、明らかに情緒が安定したし、他人を打ちのめしたいような攻撃的な気持ちに囚われなくなった。

 

それで、「いつも、自分が怒りを証明したいと思ってきた相手って誰だったんだろうな」ということをふと思った。

あれだけ必死に攻撃的な言葉遣いで牽制していた相手は誰だったんだろうって。

結局、どんな世界にいようとも、何を好きで何を支持しようとも、

その反対側に暮らす人というのは必ず存在し、私の目の前に現れては、私の全てを否定するようなことを言ってくる。

しかしそれは、その人が私をボロボロに壊す敵として生まれてきたからなのではなく、

その人の生きてきた道や愛するものや頭の中が、たまたま私と敵対する性質を持っていただけの話で、

それが運悪く巡り合わせて出会ってしまっただけなんだなと。

そしてこれは、なにも私一人の不幸なのではなくて、相手からしてみても不幸な事故であるんだなと、そう考えるようになりました。

 

するとどうか。

今まで自分が怒りを証明したいと思ってきた相手の不在に気付いたのです。

結局、怒りの対象に、自分の思想に与してもらったり完全降伏してもらい謝罪などされたところで嬉しいのか?というと別段魅力的に思えない。

では、そいつが屈辱的な想いや怪我や病気をしたり命を落としてしまえば満足なのかというと、そんなことは露ほども想いもしない。

私は、私の人生の邪魔をして欲しくないだけであって、

そうでないなら、あらゆる人間に生きていて欲しいと思う。

その方が愉快だもの。

世界が私とそっくりな人だけでいっぱいになられたら、面白くない。

私と全然違う嫌なヤツが変ちくりんなことをやらかすから、面白いのだと。

 

私は、誰かに分かって欲しくて叫んでたんじゃなくて、

私自身に自分を分かってもらいたくてあんなに大声で強く叫んでいたのかなと、

今にして思う。

自分はこんな人間だよ、これが好きだよ、これを信じているんだよ、

そんな自分を根っから丸ごと愛して誇って欲しいよと。

 

それと同時に、私は人生の目標を失った。

だって、今までは誰かに認めてもらう一心で意地を張ってきたのだから。

その必要がないのなら、飢えない程度に稼いで、健康で、時々旅行や美味しいものを食べて、作品を見聞きして楽しんだり好きな服を着られればそれでいいものね。

 

改めて、齢28にして、これからどう生きるかと呆けているところです。