"何もない場所"

よく、田舎から都会に出てきた人にどこの出身か聞いたときに起こる会話で、

「え~○○なんですか!○○いいところですよね」

「いや~なんもないところですよ(山・海・畑しかないというバリエーション有)」

というのがある。

 

でも、どんなにありふれた自然しかないところでも、沢山の植物が自生している。

地面には芝草・シロツメクサムラサキカタバミオニタビラコ等が群生し、

杉や竹がいたるところに林立している。

そうしたら、本当に何もないところってどんなだろうと考えたとき、

一番何もない場所というのは、

馬鹿みたいに広く作ったショッピングモールの、

テナントも入らなくなった一角の余りの真っ白い床なんかがそうじゃないかと思った。

 

流行の売れてるブランドやメーカーの店舗を誘致し話題を浚おうと、

狭い土地で新しいショッピングモールやアウトレットが乱立しては客が右往左往する。

そこに絶対の安らぎなどはなく、

売り手も買い手もいつも何かに追われているようだ。

しかも、新しいモールに客をとられてテナントが撤退したら、

もう、いよいよ馬鹿でかい土地をコンクリートで固めたことが宙ぶらりんになってしまう。

そんならまだ、土に戻して畑に変えてメロンや葡萄でも育てた方がマシじゃないのかと思ってしまう。

 

周りに自慢できるように、という基準で趣味・思想・身なりを変えてしまう人にも同じことを感じる。

これは「一般大衆はみんなバカ」と言ってるんではなく、

「私はバカな一般大衆と違って面白く特別です」という気持ちで何もかも選択してしまう人も含めている。

他者からの印象を良くするために自分の物差しを失っているのはどちらも変わらない。

もちろん、最初から物差しを持ってないとか作り出すのが苦手な人をいじめるつもりもないし、

印象良くするために効果的な自己アピールをしながらも自分の世界を大切にしている人だって沢山いることは知っている。

だけど、私は辛い恋愛経験で自分を根っから否定する気持ちになって

化粧やファッションをごっそり変えようと散財してしまったのを後悔しているので、

過去の自分や、それと似た人のことを虚しいと思って仕方ないのです。

 

本当に何もない場所というのは、田舎のだだっ広い畑や河川敷なんかのことではなく、

客をとられたショッピングモールの白い床のように

移ろうものに自分を委ねてしまった私達なのではないですかね。

自分がVtuberでやりたいことの話、Vtuber活動で悩んでる人へ伝えたい話、など。

ちゃおっす。死んでないよ。
Twitterアカウントが突然犬になったから「えっ何事!?」って思った人もいるかもしんないけど、
僕はこれからもnoteやYoutubeを通して聞いて欲しいことや見て欲しいことを発信していくからよろしくね。

で、以下は動画でも喋ってる内容を文字に書き起こしたもの。
じっくり読みたい人向けに置いときますね。

 

Vtuberでやりたいことってなんだ】

 

■なぜVtuberを再開したのか?

 

これ、これなんですけども、
僕実はネットで顔出すのあんまり抵抗ない方の人間なんですね。
そしたら、わざわざ個人でアバターを作成してかませるより、
直に人間の体で配信とかしちゃった方が早いわけですよ。
いちいち描かなくても標準プリセットとして笑顔とかろくろ回しとかできるし(笑)

あと僕は昔、2年前のVtuberブームの時一度デビューしてまして、
その時は炎上して辞めちゃったんですけど、
普通、嫌な想い出になってもうやりたくないな~って思うはずじゃないですか。
2つもネックになる点があるのにまたこうして体を作ったのは、
すっっっごい単純な話で。
せっかく一度覚えた技術を忘れたくないっていうのと、
生身の体でYouTubeやるとお化粧とかライティングとか面倒なんですね(笑)
僕の場合は、そういう準備するより、一回体作って使い回した方が、
何かやりたい!って思ったときの瞬発力に繋がるので。

あとはね、自分で言うのもなんですが僕の描く人間って顔が良いじゃないですか?(笑)
自分で見ていてもテンション上がるし。
そういうシンプルな理由でVtuberを再開しましたね。

 

■やりたいことを明確に炙り出す

 

あ、そう、でね、さっきちょっと話したついでに語らせてください。
2年前って個人Vtuberブームがあったじゃないですか?
ねこますさんに感化されて、ブワァーッて増えたよね。
で、その中から動画を作るより雑談やコラボの配信、オフ会とかにハマる人が増えて、
古参のオタク達の間でオワコンとか語られてたじゃない?
でもね、僕はVtuber別に終わっていないと思うんだよ。
動画を作る正統派なVtuberってのは昔から存在し続けてるし今も次々と生まれていて。

それに、配信やオフ会に移行した人っていうのは、間違いなくVtuberではないんだけども、
あの人達は多分「友達を作るためにVtuberになりたかった」んだと思うのね。
だから多分Vtuberブームを社交場だと捉えていた。
そう考えたら「貴方の本当にやりたかったことってなんですか、自分見失ってませんか」
という問いかけはお門違いで。
みんな友達作りたかっただけだと思うんだよ単純に。

僕も実は動画より配信の方がよく観るし、オフ会とかしてみたいと思ってる。友達欲しい。
でも僕の場合その一回目のデビューでVtuberさんやファンの人と友達になれたから、
そういう欲は満たされて落ち着いたんですね。
で、そこから自分と向き合った結果、
「ゲーム配信したり歌とか朗読とか自己流哲学語るの好きだから、そういう場を設けたいなぁ」
となった次第で。

だからその、活動で悩んでるVtuberさんがもしこの動画見てたらですね、
自分は他者と交流したいのか?自分の勉強や練習の結果を披露する場が欲しいのか?って考えて、
自分のやりたいことを炙り出せばいいと思います。
そして、その動機に合わせた達成手段を選択すればよくて。
自問自答次第ではSNSいらなくなるかもしれないね(笑)
僕がTwitterみみちゃんに譲ったみたいに。
でもそれもアリ。全て、何者にも否定されたり邪魔される筋合いはないです。
好きにやりましょう。

 

【自分は思ってる以上に臆病で繊細だから、許してあげないと進もうとしないって話】

 

ほんでね、最後にこれも軽く触れさせて欲しいんですけど、
何か行動したり、制作するためには心身共に気力が滾っていないとできないな~と
最近実感したんですね。
僕ツイ廃なのでほぼ一日中Twitter見てるんですけど、
やっぱTLの巡りあわせで病むときがあるんですよ。
ヤレ「凡人の自分が天才に並ぼうと思ったら毎日努力するしかない」とか、
「自分の上位互換みたいな人間と比べてしまう」とか、
こないだまで初心者だったあの人がめちゃくちゃ努力や成長してて焦るとかね。
そういうのに刺激されて好転できる人はいいんですけど、
僕もそうだけどそういう刺激を受けると身体も心も固まっちゃうんですよねぇ...。

で、更に最悪なのが、
そういう焦りに支配されてる内ってホントなんにもできなくなるんですよ。
これ、頭の中であらゆるアイディアを実行する前に否定してボツを出してる状態で。
「そんな悠長にやってたら追い抜かれるぞ、もっと建設的な行動をしろ」とか、
本当は脳も体も休みたいのに、「そんなことしてる内にライバルはどんどん先行くぞ」
とか考えて無理して続けちゃう。
だけどね...みなさん仕事って勤務時間中ずっとやっていられますか?
できないよね?仕事も、運動も、趣味も...
とにかく何もかも、そんな集中力続かないでしょ?
面白い本とかアニメにハマってガーッと一気見することもあると思うけど、
でもそれ毎日じゃないでしょ?
だからね、計画的かつ意識的に休むのが何かをやり続けるコツだと思う。

 

■休む時は、脳の稼働を最低限にしよう

 

でね、休むときはTwitter閉じちゃった方がいいね。
好きなアニメや漫画、後で見ようと思ってたnote・本・動画に目を通してみるとか、
いっそなーんにもしないで朝から家事だけやってそのまま散歩に出ちゃうとか。
そうすると気付くんですけど、
人間の生きている時間って本来すっごくゆっくり流れてるの。
掃除して、ご飯を手作りして片付けて、
衣類を洗って干して、散歩に出かけて、湯船に浸かって...
どんだけゆっくりやっても休日なら一日9時間ぐらいはあると思う。
そしたら、その余った時間に「暇だし、元気だから何かアウトプットしようかな」
と自然と思えるタイミングがあると思う。
何か産み出すペースってそれでもいいと思うんだよね。
仕事なら話は違って来るけど、
僕らのような趣味で何かやる人間っていうのは、
ただ働いて家事をこなすだけで生きていけるのに、
それが退屈だからもっと楽しみたくて趣味をやってるわけじゃないですか。
なら、自分が一番気持ちのいいスタイルでやってくのがいいと思う。

 

■極論、自分の味方は自分しかいない。自分の味方になってあげよう。

 

まぁ話を要約すると、僕らは誰か他人に批判とか否定される前に、
もう既に自分を批判したりしていることが多いです。
だから、ただでさえ周囲は容赦なく批判してくるのに、
自分まで自分を否定して急かしちゃ誰も味方がいなくなってしまうわけじゃないですか。
そしたら、何か挑戦してみようみたいな気持ちが挫かれて当然だよね。
だって自分の脳に一番近いのって自分の脳じゃないですか(?)
誰しも、自分というのは、自分で思ってる以上に繊細で臆病なんだと思います。
そんな自分に、「怖くないよ、出ておいで」って安心させてあげるために、
やる気が出るまで適度にほっといて、
でもいざとなればすぐ一緒に走ってあげられるように傍にいてあげるみたいな。
そういう、野生動物を飼い馴らすつもりで自己マネジメントするといいんじゃないかな。
って話でした。


【まとめ】

 

点々と色んな話をしましたが、
これらは全部僕が今度元気がなくなった時に見るために用意しました。
SNSをなんのためにやるのか、
自分が本当にやりたいことってなんだったのか、
という問いかけを、時には他人からの声をシャットアウトして
自分と2人きりで話す機会が現代には必要なんじゃないかなと、
思うこの頃です。

”性格が悪い”ってどういうことなんだろう?

「性格が悪い」

という、言葉があるじゃないですか。
僕もみなさんも人生で一回は、捨て台詞のように言ったこと・言われたこと、
はたまた誰かが誰かにそう言うのを聞いたことがあると思います。

僕は喧嘩相手にそう言われる度に、
「僕は”悪”なんだ。だから何をしてもダメなんだ。どうしたら”性格の良い人”になれるんだろう…」
と、自分を...自分の感じること考えること全てを拒絶し、憎み嫌って生きてきました。

だけど、この言葉に何度も何度も打ちのめされる日々を過ごす中で、
27歳の時ある日ふと思ったんです。
「そういえば、この”良い”と”悪い”って誰にとってなの?」

と。

そう思い始めてから考えていく内に分かったんです。
性格が(言った人間にとって都合が)良い/悪い
ということだったのだと。

人は往々にして、
・いつも機嫌が悪く愛想がない
・周囲の人間を見下している
・人の不幸な姿を見るのが好き、安心する
・成功している人間を傷つけたり邪魔することで満たされる
・暴力的で加虐嗜好を持つ
・自身の利益のためなら他人を不幸に突き落としても傷つけても平気
といった特徴を持った人間を”性格が悪い”と評します。

対して、
・いつも笑顔でこちらの機嫌をとってくれる
・周囲の人間に常に感謝し、尊敬していたり好きな面を何か1つ言える
・人の幸せを素直に祝い、人の不幸に涙を流せる
・成功している人間に学び、失敗している人間に手を差し伸べる
・友好的で恐怖感や威圧感を与えてこない
・周囲の人間の幸せのために自分の時間・財産・体力を削って施しを為す
といった特徴を持った人間を”性格が良い”と評します。

こうして書き表してみると、
他人の、単なる性格や気質という要素を自分の損益と照らし合わせて
良し悪しを決めつけるような人の方が利己的で性格が悪いんじゃないかと、
僕にはそのように思えてならないのです。

だから僕は、自分で自分を「性格が悪いから」と言って投げやりになってしまう人も好きじゃないし、
人に向かって「あの人性格悪いよね」と言ってしまう人も好きじゃない。

悪い性格なんて一つもない。

ただ自分と相性がよくなくて、一緒にいると不利益をもたらす性質をその人が持っているというだけ。

僕と同じで、沢山の人に性格が悪いと言われて来た貴方もどうか、
自分を責めたり拒絶しないであげてください。
生きることは苦しくて味方なんてそうそう現れないんだから、
せめて自分は自分の味方でいよう。ね。

反省

今回のアカウント移動騒動もですけど、

すみれちゃんの時も、スミノフの時も、結局私が一つのアカウント続けられないとか一つの界隈に居続けられないのって、

私が対人トラブルを起こしちゃうからなんですよね。

 

私は、オフでもネット上でも、ある程度仲良くなった人みんなに言われるんですが、

「正義感が強い」そうなんですよ。

でもこれ、大分オブラートに包んで言ってくれてるの分かってます。

私、「自分が正しいと思ってることから逸れてる他人に攻撃的・排他的な態度をとってしまう」んですよ。

多くの人は、自分の命や重大な利益が絡んでない事柄では無駄に争って疲れたり無闇に敵を作らないように、私みたいな人のことも心の中で「はい、はい。」っていなせるんですよ。

でも、私と同じ自己執着の強い人とか、

私みたいな直情的でなんでも表に出してしまう人間をからかってオモチャにしたり利用するのが好きな人っていうのは、

私と衝突しちゃうんですね。

 

一つ前の記事で書いた内容と、怪我や収入の不安と、Vtuberを続けるかどうかの迷いで頭の中がグチャグチャになってて、

ちょっとしたことでも怒ったり不安定になる自分が嫌で5月末からTwitterを離れようとしたり鍵をかけたりしてましたが、

Twitterを離れてお出かけしたり気分転換を沢山したお陰でかなり冷静さを取り戻しました。

そして改めて自分の行動を振り返って、自分でトラブルの種を撒いていたなーと思うんです。

 

多分、「馬鹿にするなよ」「ムカつくなぁ」って思って言い返したりやり返したくなる気持ちって誰にでもあると思うんですけど、

それを表に出すと厄介だからみんな猫の話したりにゃーんって言うんだなって、

今やっと分かった感じ。

 

あと、「誰もそこまで興味ないでしょ」と思って生活圏の話とか仕事の話とか自撮りとかバンバンしてましたけど、

逆だよね。人間って想像以上に他人に興味あるしよく見てる。

だから自分の精神状態や金銭状況や住まいの話...地震時のツイートとかね、

そういう自分に関する情報って誰がアクセスするか分からないところに出すのはよくないんだなっていうのが身に染みて分かったんです。

 

だから、もうずっと鍵付きでやってこうと思います。

 

今仲良くしてくださってるみなさん、本当にありがとう。

私も自分の粗と向き合って悪いところを治していくので、

これからもよろしくね。

桜と私の話

私の故郷にはソメイヨシノは咲かない。
桜はみんな、濃いピンク色だし花弁が散るのでなく花托からボトッと落ちる。
それだからか、花見の文化もない。
きっと花がお弁当や盃に落ちてしまうものね。

 

私が初めてソメイヨシノを見たのは、2017年の春だ。
その時結婚を前提に同棲していた交際相手がいて、彼と三重県で暮らしていたとき。
「桜舞い散る」というフレーズを歌詞で耳にしたり
ドラマでその演出を見てもずっとその感慨深さは分からなかった。
だけど、初めて本物を目の当たりにしたとき、

「あぁ...!舞いながら散ってる!」

と深く感銘を受けたことを覚えている。
とても幽玄で儚く、柔らかで、こんなに美しい花は人生で見たことがなかった。
美しい...美しいのだけど、それを素直に綺麗な気持ちで見れない私もまた存在していた。
私は彼と同棲するにあたって、引っ越し費用も、飛行機代も、
日々の生活費から家賃光熱費一切合財を彼に出してもらっていたからだ。
生かされている。この人に連れてきてもらって、見せてもらっている。
そういう負い目があった。

自分はこの花の前に立つにはあまりにも不確実な存在だと思ったのです。

 

...その1年後の11月、私は彼の母国シンガポールから故郷へ向かう飛行機に一人乗っていた。
別れたのだ。
彼は日本国内あちこちの旅行へ連れて行ってくれた。
訪れてない県はほとんどないぐらいに。

彼なりの愛情だったと思う。
けれど、付き合って時間が経ってからも私と二人きりでいたがり、
週末の休みに私が友達と遊びに行ったり友達と彼を交えて遊ぼうとすると彼は嫌がった。
そして、私が精神的に思い詰めているとき、いつも突っぱねるように正論だけ返した。
「分かってあげられないのに"分かる"なんて言えないでしょ」、それが彼の口癖だった。
とても寂しい言葉だなと今でも思う。
そういう気質が合わなかったのだ。

久しぶりに降り立った故郷の風は潮の匂いがして、体中にベタベタと張り付いた。
そして、やはり、なんて退屈な場所なんだろうと思った。
電車でどこまでも行くことも、400円で銭湯に入ることも、
秋に紅葉することも、冬に雪が降ることも、何もない。
そして...春にソメイヨシノが舞い散らないのです。
一年中暖かくて海の綺麗な穏やかな場所だけど、
例えるならまるで、ホスピス病棟のような場所だと思った。
人生の最期の時を待つにはいいのだろうけど、
桜の美しさを知ったばかりの私には退屈すぎた。

 

そして私は決意する。
「もう一度自分の力で桜を見に行こう」と志した。
それからは中々に楽な日々ではなかった。
人生で初めての慣れない水商売をしながら、少しずつお金を貯めていった。
目標貯金額は50万。
あともうちょっとで届く...というところで、変な男と付き合ってしまう。

彼は最初の方こそ
「婚約者と同棲している時からずっと、5年間も好きだった」
「結婚しよう。そしたら毎日会える。ずっと一緒にいたい」
そう言ってくれたのに、
私を養うためと就いた正社員の会社も1ヵ月で行かなくなり、
元々あった消費者金融からの借金をどんどん膨らませて、
ご自慢の車を改造したり居酒屋で一晩に3万使うような豪遊をしながら半年近い同棲は続いた。
もちろんその時点で私の貯金は底を尽きていた。

別れる時が大変だった。
「お前さえいなければ車も壊れなかった、こんな家賃の高い家にも住まなかった、
 こんな大きな家電は買わなかった、お前に使った金、臓器売ってでも耳揃えて返せ」
という旨の主張を繰り返し、恫喝や物を投げるなどのDVまがいのことをしてきた。
結局父親が間に入ることでなんとか別れられたが。

 

前の彼との生活で満足に家事をしてあげられなかったので、
今度こそはと身の回りの世話をなんでもした。
自分の時間も、財産も、心も、全てをかけた相手だった。
それ故に、反動で茫然自失となってしまった私を父が哀れんで、
「ここにいたらまた彼がつけてきて殴られでもしたら危ないから、東京、行っておいで。」
そう言って50万を渡してくれた。

涙が出た。

父の優しさにじゃない。
今度こそ自分の力で桜の前に立つと決めたはずで、
そのためにがんばってお金を貯めていたはずなのに、
他人のつまらない横槍でそれをみすみす失くしてしまった愚かな自分が不甲斐なくて、
惨めで恥ずかしくて泣いた。

ソメイヨシノ行のチケットの入手経緯はそのような恥ずかしい物語なのだが、
そうして東京に来てからというもの、私は学も技術もないなりに一生懸命働いた。
毎月10万と日雇いで稼いだお金でなんとかやっと暮らしている。
一時昼も夜も働いていたので、その給料月は服を買うなど贅沢をしたけど。

 

 

 

そんな日々を経て、やっと、また春がやってきた。
父の援助がなければ叶わなかった夢だけれど、
私は今度こそちゃんと自分の足で桜の前に立つことができたのかなと思う。

 

 

 

そして、来年はもっともっと誇らしい気持ちで会いたいと思うのだ。